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ヒットラーの「反ユダヤ主義」から、広島、長崎までの経緯を追う

ヒットラーの「反ユダヤ主義」から、広島、長崎までの経緯を追う

 

1933年、反ユダヤ主義のヒトラーがドイツの首相となった。

早速、彼を党首とするナチスは、ユダヤ人を公職から追放するべく「反ユダヤ人法」を法制化し、ユダヤ人の市民権を剥奪した。

レオ・シラード「私の名前は、レオ・シラード、ドイツで核分裂問題に取り組む物理学者として研究を重ねていました。しかし、ヒトラーの出現によって、身の危険を感じ、ユダヤ人虐殺が始まろうとする危機一髪の時、ドイツからイギリスへ逃れました。私には、一つの大きな不安がありました。それは、ドイツが核兵器の開発をしていることを知っていたので、それを止めなければならないということでした。」

「私は、相対性理論で物理学会では少しは知られた存在になった、アインシュタインです。私もナチスに追われアメリカへ渡りました。その私に、レオ・シラードから、核開発についての相談がありました。」

レオ・シラード「ドイツは、世界一の重水工場と、ベルギー領コンゴの何千トンもあるウラン鉱に立ち入る権利をもっています。ドイツの核兵器開発の成功は、現実のものにとなるでしょう。その前にアメリカが開発して、ドイツの蛮行を止めねばなりません。そこで、このことをルーズベルト大統領に進言したいのです。それには、アインシュタイン博士のお力が必要です。どうか、私の大統領への手紙に、あなたの同意のサインをくださいませんか。」

レオ・シラードの手紙は、アインシュタインのサイン入りで、ルーズベルト大統領に届けられた。

 

1941年12月8日、日本軍の真珠湾奇襲攻撃で、日米の戦争が開始された。

アメリカに石油ルートを絶たれた日本政府は、米国に宣戦布告の通知をするべく在米日本大使館に通達していたが、開戦通知書の作成に手間取り、真珠湾攻撃から55分後に米国側へ通告され、事実上は、奇襲攻撃となった。この時攻撃に使われた魚雷は、四年後の1945年8月9日に原爆によって崩壊した三菱大橋兵器工場で製造されたものだった。

ルーズベルト大統領は、それまで、この戦争に積極的でなかったが、この奇襲攻撃によってアメリカ国民の戦意高揚に火が付き、戦争への道を突き進むことになった。

原爆開発の検討が、本格的になったのは、1942年に入ってからだった。それは、日本軍の東アジアや東南アジアの占領が始まり、占領地での無差別殺戮、強制連行などによる過酷な労働強制のニュースが、アメリカにもたらされ、日本帝国の暴挙を止める必要に迫られていた。

ルーズベルト大統領は、アインシュタインやシラードなどの優秀な科学者たちの進言に沿って原爆開発に賛成した。早速、20億ドルの予算をつけ、ロスアラモスに研究所を開設し、延べ1200人の科学者を集めたが、その多くはドイツを追われたユダヤ人学者たちであり、そのうちの25人はノーベル賞受賞者であった。ニューヨーク生まれで、ドイツ留学の経験があるオッペンハイマーは、ノーベル賞を欲しかったが、その機会はなく、他の方法で科学者としての存在を確保したかった。そこで、マンハッタン計画(原爆開発計画)の責任者のレスリー・グローブス将軍に、自分を売り込み、ロスアラモス研究所の所長となった。

ロスアラモスの原爆開発は、厳重な管理のもと秘密事項として、行われた。1942年6月にアメリカは、ドイツが原爆開発を断念したことを知ったが、まさにこの時、「マンハッタン計画」を立ち上げ、原爆の開発を続行することにした。

真珠湾奇襲攻撃で、アメリカ人たちは、「ダーティ・ジャップ」と呼び、日本帝国を敵として意識することになった。また日本は、英仏蘭の植民地支配から、アジアを解放するという名目で、シンガポール、インドシナ半島、ソロモン諸島、フリピン、タイなどを攻略していった。攻略地での日本軍は、捕虜や現地住民に対して、暴力や略奪を繰り返し、多くの犠牲者を出した。
例えば、1942年2月、シンガポール攻略の時には、数万人の「華僑」を虐殺したし、その4月には、フリピンのバターンとサンフェルナンドの約60キロを、捕虜に歩かせ、その間、水、食料、薬などを与えず犠牲者を出した。
また、1943年10月に完成したタイと、ビルマをつなぐ「泰緬」鉄道工事では、連合軍捕虜と、アジア人労働者の数万人の犠牲者が出た。

しかし、1942年半ばになると、米軍を中心とする連合軍の報復に日本は、占領地を奪われ多数の犠牲者を出した。

一方、連合軍は、1944年11月になると、日本軍を追い払ったサイパンから、日本の本土の初爆撃を行うため、日本へ飛行機が出発した。

1945年3月10日の東京大空襲では、グアム、サイパン、テニアンから334機のB―29が飛び立って、2000トンの焼夷弾を投下し、約10万人以上の男女子どもが犠牲になった。その後、10日間で、名古屋、大阪、神戸と爆撃し、日本の4大都市を焼き尽くした。
この激しい空爆と同時に、アメリカでは原爆の開発は進んでいた。ロスアラモスでの核爆弾の完成を真近かに、軍部関係者による議論が飛び交った。

アーノルド「日本は、もう通常の爆撃で降伏させられるという状態だ。」

スチムソン「原爆開発に20億ドルも使っている。原爆投下の成功によって、その責任を果たさねばならないのだ。」

マーシャル「日本は、最後の一人まで戦うという姿勢を崩していない。ここは戦意をとことん失うような攻撃が必要だ。」

バーンズ 「ロシアによる共産化を止めるには、この戦争にロシアの参入前に、我々が、勝利する必要がある。それには、原爆投下しかなかろう」

ハリソン 「すでに、8月10日までに原爆投下は可能で、投下リストとして、広島、小倉、新潟だ」

カーチス・ルメイ「戦争では、人は殺さなくてはならない。そして、徹底的に殺した時に、相手は戦いをやめるのだ」

長崎は、原爆投下の目標としては、7月の最終週まで、入っていなかった。ロスアラモスの意向が日本に原爆投下を実行する方に行く中で、レオ・シラードは、自分が原爆開発を米大統領に勧めたことではあったが、その破壊力が計り知れないことを危惧して、マンハッタン計画の科学者たちに、使用しないように嘆願した。
更に、レオ・シラードは、ルーズベルト大統領に直接会って核爆弾の使用停止を進言することになっていたが、大統領の突然の死去により、その機会はなくなった。
そして、大統領職はトルーマンに引き継がれ、レオ・シラードの原爆使用禁止の願いは届かなかった。

トルーマン新大統領は、原爆完成のニュースを期待しながら、第二次世界大戦の事後処理についての会議にドイツのポツダムに向かった。
その会議の途中に、「子羊が生まれた」という原爆完成の暗号を受け、ロシアの参入なしに、アメリカは、日本へ無条件降伏をポツダム宣言によって要求した。

ヘンリー・スチムソン陸軍高官は、「日本は、気の狂った狂信者だけでなく、知的な国民もいる。原爆を投下する前に、十分な警告が必要だ。あの国を牛耳っている日本軍を説得できるのは、ヒロヒトしかいない。無条件降伏すれば、天皇制の下での立憲君主制は、排除しないことを伝えるべきだ」と、主張した。

7月26日、ポツダム宣言に、無条件降伏に従えば、軍隊を解体し、兵士は人権を保障され、故郷に帰還できることが約束されることが明記されて発表された。天皇の温存を入れることも検討されたが見送られ、ひそかにトルーマン大統領の胸に留め、日本降伏後にその方針に当たることになった。

 

7月27日、午前7時、日本側はポツダム宣言を傍受した。

 

検閲後の日本の新聞には、兵士たちの人権保障や帰還のことなどは削除されて、無条件降伏だけが強調され発表された。日本政府は、

東郷外務大臣「多くの日本兵が苦労して手にした、アジアの領有地を、手放すわけにはいかない」。

鈴木首相「そうだ。私もそう思う。」

さらに軍部は、国民が最後の一人になっても戦うのだと猛反対をした。
日本は、このポツダム宣言を無視した形となった。アメリカは、日本の黙殺は、原爆投下の立派な理由になると考えていた。それから8月の原爆投下実行まで、周到な準備が始まった。丁度、ポツダム宣言発表の26日、アメリカの重巡洋艦インディアナポリス号は、テニアン島に「リトルボーイ(広島型爆弾)」を降ろした帰路、29日、日本の潜水艦「イー58=伊ー58(回天特別攻撃隊)」に6発の魚雷で攻撃され、500人以上の犠牲者を出した。「イー58」では、艦内で祝杯が挙げられた。

8月6日、早朝、機長であるティベッツ大佐の母親の名前を付けた爆撃機「エノラ・ゲイ」がテニアン島を、出発した。

出発に当たって、プロテスタントの牧師が「天の高さをものともせず、敵どもたちに戦いを挑む者たちとともにあれ」と祈りをささげた。途中、爆撃機の中では、これから繰り広げられる惨劇の予想などなく、いつものようにコーヒーとハムサンドで朝食がとられた。

午前8時16分、広島に原爆が投下された。爆弾には「天皇へのごあいさつ、インディアナポリス号の乗組員より」と、署名入りで刻まれていた。

広島には、午前7時9分頃にB-29気象観測機が飛来したが、31分には空襲警報解除になっていた。これは、市民を敵機に慣れさせる戦術でもあった。

1945年8月6日、午前8時16分2秒、広島の島病院の上空580メートルで人類初の原子爆弾が炸裂した。

広島は朝のラッシュ時間を迎え、相生橋周辺は、通勤の生徒や一般人、兵隊などでごった返していた。しかし、原爆の炸裂と同時にこの人々の群れは、一瞬のうちに黒こげの塊となった。空を飛ぶ鳥が空中で焼かれ、蚊、ハエ、ペットすべてが消えてしまった。生き残った人間は、飛び出した目玉を掌に乗せた真っ裸の男、大きな水槽の中で、全身真っ赤になって死んだ赤ん坊を頭に乗せて泣いている母親、目や鼻、口、耳が全て溶けてなくなった顔の人など想像を絶する有様だった。川は、膨れ上がった死体でいっぱいになっていた。

原爆は、市役所、学校、病院、警察署など、あらゆる人間社会の組織を破壊した。

広島では、1945年末までに、14万人が死んでいった。

今まで人類が経験したことがないような惨状は、ロスアラモスには、『ヒロシマが破壊され約10万人が殺された」という情報が流され、作家ポール・ファセルは、「東京に上陸して砲撃されることはない。僕は生き残れて成長して大人になれるのだ」と男泣きをした。ラフォダホテルには祝賀会の用意がされた。

原爆投下について、

グローブス将軍「すごい爆発だったようだ。この成功はロスアラモス研究所の所長に、 オペンハイマーを選んだことだ」とその成功を早速彼に電話した。

ハリー・トルーマン「これは、歴史的最も偉大なことだ」

レオ・シラード「原爆投下は、歴史的最大の過ちだ」

オットー・ハーン「おびただしい数の罪のない女、子供の悲劇を思うと堪えられない」

などの意見が飛び交った。日本は、これだけの被害を受けていてもすぐには反応しなく、まだ、ソ連の調停で連合国との和平を図ろうとしていた。しかしそのソ連は日本の敗北が鮮明になり、日本へ宣戦布告すると、9日、午前1時過ぎ、160万のソ連兵が満州へ攻め入った。日本が広島の原爆投下に反応しないことにバーナード・j・オキーフ海軍少佐は1日でも早くもう一つの原爆を投下することが日本の降伏を促し、戦争を終わらせることになると確信していた。

9日、午前3時47分、フレデリック指揮官、スウイニー少佐の操縦で、原爆を積んだB-29「ボックス・カー」が、テニアン島から飛び立った。

最初は、小倉上空で目的地を探したが雲に覆われ発見できず、長崎へ南下した。長崎も雲に覆われていたが、雲間にぽっかり穴が開き、20秒間の有視界走行が可能になった。下には浦上競技場があった。その上、500メートルで爆発させた。この原爆投下の成功によって、原爆製造にかかった約20億ドルを無駄にせず、原爆開発を推進したグローブス、スチムソン、レバンワースを投獄せずに済んだ。 爆撃機は、成功の喜びを乗せ急上昇して帰還した。地上で繰り広げられている惨状には、何一つ想いが至らなかった。長崎での犠牲者は、1945年末までに、約7万を超え、5年後には人口の54パーセントが死んでいった。

それでも、日本の軍部は降伏に応じようとはしなかった。

それどころか、第一航空艦隊司令長官の大西滝次郎が考案した若者を生きたまま敵への攻撃弾として使う「神風特別攻撃隊」の2000万人の命をささげると、提案した。アメリカは更に、2発目の「ファットマン=長崎型原爆」の原爆を用意しようとしていた。

天皇は、非常手段をとって、スイスを通して降伏の申し出をした。

 

1945年8月15日、日本は降伏した。

 

長崎では9日原爆投下後、真夏の強い太陽の下では、黒焦げの大地に山積みの屍、筆舌に尽くし難いほどの悲劇が繰り広げられていた。
のっぺらぼうの大地に瓦礫の山、焼き魚ならぬ焼き人間の遺体、焦げた軍馬、犬猫などの死体、あたりいっぱいにまるでさんまを焼いたような異臭が広がっていた。
原爆投下の爆心地では、跡形もない家の庭に、相撲取りのように膨れ上がった母親に、駆け寄ろうとしたままの姿で子どもが2人死んでいる。自宅横の防空壕に避難していた10歳の女の子は、原爆投下時の爆発音に気絶し、丸1日経って防空壕を出てみると、家族5人が全員即死していた。彼女はたった一人ぼっちになって、黒焦げの荒野に立ちすくんでいた。
爆心地から1.5キロの家では、子ども6人が家の下敷きになってしまった。5人は何とか壊れた家から助け出されたが、3歳の女の子は、落ちてきた大きな梁の下になり、助け出せずにいた。
そこに、外出中だった母親が、全身火傷をし、体中が紫色になり、髪の毛がちぢれてしまった姿で駆け付け、梁の下に自分の体を入れ、女の子を助けた。母親の肩の皮膚がぺろりとはげ、血がにじみ出た。その後全身が膨れ上がり呻きながら悶え死んでいった。この時、母親が自分の命を懸けて救った女の子は、それから19日目に、全身が水疱瘡のようになり、体中が腐り始め、口の中からも腐った自分の肉を吐いて死んだ。爆心地の浦上地帯は、すべての建物は破壊され焼き尽くされた荒野となり、たった一人生き残った10歳前後の子どもが、親、兄弟の遺体を焼く姿や、子供全員の遺体を母親が焼く風景があちこちにあった。ほとんどは、 遺体を始末する人間もなく死体の山ができた。

犠牲になったのは、日本人ばかりではなかった。爆心地に近い浦上捕虜収容所では、中国人、朝鮮人が犠牲になり、幸町の捕虜収容所では、オランダ人の捕虜が犠牲となった。勝つためには、アメリカは、味方の連合軍の兵士まで犠牲にした。屍の山の中で、生き残った者たちは、敵味方なく救助の手を差し伸べた。頭の骨が見えるくらいに負傷した10か月くらいの赤ん坊を抱いた母親は、自らも怪我をし、血だらけになって、避難していた。そこへ、外国人の捕虜が救急箱から、赤チンを取り出し親子に塗って包帯をしてあげた。捕虜同士は、自分が死ぬほどの負傷しながら仲間を瓦礫の中から救い出すのに懸命だった。

爆心地でわずかに生き残った者は、火傷をおって喉をうるおそうと、ボウフラの湧いている防火用水を飲み、行倒れて夜露に打たれ、薬もなく、しばらくするとそのまま死んでいった。

長崎本線の長崎駅から浦上駅間は破壊され、その沿線には原爆の負傷者が溢れていた。

その中から動ける者たちが、諫早海軍病院に鉄道破壊を免れた大橋近くから汽車で運び込まれた。しかし、十分な医療体制にはなく、人々は次々に死に病院の霊安所は、たちまち死体の山となった。
夏の暑さに死体は腐り、その死体をウジ虫が食いちぎっていて、腐った人間の体液がコンクリートの床を流れていた。生き残れる期待を持って病院にたどり着いたはずだったが、原爆荒野で死んでいった多くの死人と同じ、この霊安所の死体も、どこの誰とも確認できずじまいで、処理されていった。

長崎市の北西部にある標高約475メーターの岩屋山は、爆心地から3.5キロから4キロほど離れたところにある。
山の爆心地側の城山町や油木町は、原爆の被害は大きかったが、山の反対側にある岩屋町や滑石町(当時、両町は村)は、山が楯になって被害は少なかった。ところが、ここでも岩屋山の真下ではなく、その反対側の岩屋山を仰ぎ見る方にあった家は、爆風で破壊されたところもでた。

小学6年生の武の一家は、原爆投下の直前に、この岩屋山の麓の滑石村に疎開した。
山奥の不便なところだったが、毎朝、富士山に似た形のいい岩屋山を仰ぐのは気持ちのいいものだった。親戚の紹介で農家の小屋を改造して住まわせてもらっていた。祖父も含めて7人の家族には、四畳半と六畳では狭すぎると、四畳位の部屋を建て増しして、時々体調を崩していた父親の部屋に当てていた。長男の信は、中学生で勤労奉仕に、毎日、長崎の三菱造船所へ通っていた。
8月9日、この日は、三菱兵器大橋工場勤務の父親が、体調がすぐれず家で休むことになった。信は、勤労奉仕に行く途中、先ず父親の用事を済まして勤務先に向う予定だった。出発がいつもより遅くなって、夏の日差しは強く、戦闘帽をかぶり、中学の制服の代わりに茶色の詰襟の上着、兵隊ズボンにゲートルを きつく巻いて歩くと、たちまち全身が汗だくになってしまった。最近、すっかり体力を落とした父親を心配しながら先を急いだ。必死に先を急ぐ途中、一度警戒警報が出たが、その後すぐに解除され、ほっとした気持なって大橋町に入った午前11時過ぎ、強烈な青白い光が走った。爆音と爆風が辺りを覆い、たちまち町は崩壊し、炎と煙が襲ってきていた。信は、一瞬気を失っていたが、幸いがれきの中から外へ這い出すことができた。が、着ていた制服はやゲートルはすっかり焼かれ、わずかに下着のパンツが少し残って体にくっついていた。眉の濃い鼻高の顔は崩れ去り、どこの誰かは分からないほどの形相になっていた。

一方、疎開先では、父親は寝込み、祖父が家の周りの畑に出て農作業をし、武がそれを手伝っていた。4歳の文は母親のそばで遊び、8歳の満は、母親の手伝いをしていた。疎開先のいいところは、警戒警報が出ても、それほど慌てなくてもよかったし、食料も贅沢を言わなければ食べられた。
8月9日、午前中、敵機が飛来したが、気にすることなく、一家はのんびりといつものように過ごしていた。そして、午前11時2分、青白い光が走ったと思ったとたん、父親の休んでいる部屋の屋根が崩れ落ち、大きな梁が父親の頭を直撃した。農作業をしていた祖父が5~6メートル吹き飛ばされた。武も畑の溝にはまり込んでしまった。
家の中にいた母親と文、満は、大きな衝撃音とともに吹き飛ばされて、幼い二人は驚きのあまり声も出ないようすで、へばりこんでいた。
武は、気を失っている間もなく、建て増しが崩壊し、天井の大きな梁の下敷きになった父親を助け出すのに、祖父と懸命に崩壊した屋根を取り払い、梁の下の父親を救い出した。父親は梁の直撃を受けて、額から大量の血が流れていたが、命には別状はなさそうにみえた。村で家が半壊したのは、武の家だけだった。長崎の町が、爆撃されたことは確かだったが、何が起きたのか何もわからなかった。

夕方近くになって、いつもなら帰ってくるはずの工場に行った信が、姿をみせなかった。そこに、村人の一人が、「お宅の坊ちゃんじゃなかろうか、六地蔵の所で倒れとなっとは。もう、町の方は怪我した人でいっぱいですばい。敵が太か爆弾ば、落としたらしか」と知らせてくれた。誰かも分からないほどの形相をした男の子が、片方の靴をしっかり抱いて、弱弱しい声で滑石に疎開したばかりの家に伝えてくれと、頼んだというのだった。やがて、死んでいくほどの火傷を負いながら、明日工場へ行くために靴を必死で抱きかかえていたのだった。それも片方だけ。もう一方はどこへやら。
武は、祖父とリヤカーを引いて、約1.5キロほどある六体の地蔵像のある六地蔵まで駆け付けた。途中の道端には負傷者があふれていた。浦上地帯は壊滅し、多くの人が、道ノ尾方面へ避難してきていた。山奥の滑石地区には、緊急の救護所ができているということだった。
早速、全身に火傷を負った信を何とかリヤカーに乗せ、祖父は救護所へ運んだ。そこには、大勢の負傷者がひしめいていた。そして、急遽、滑石に隠居中の退役軍医が必死に治療にあたっていた。
武は、リヤカーに、ぼろ布のように蹲る者が、とてもあの優しい兄の信とは、信じられなかったが、よろよろとリヤカーを引く祖父を少しでも楽にしようと、懸命に押して救護所に着いた。診察台の上には、近所の信と一つ違いの近所の少女が、やはり瀕死の状態で横たわっていた。三菱兵器大橋工場で負傷し運び込まれたところだった。武の眼には、少女の首が今にも切り離されそうになっているように見えた。麻酔なしで頭部の傷口から次々にガラスの破片や木片が取り出されて、その度に少女の悲鳴が辺りに響き渡る。信の順番を待っていたが、医者は首を振って「治療の仕様がないから、せめて早く家に連れ帰って、そっと寝かせてやってくれ」と言った。他にも重傷者がひしめいている。祖父は、諦めてリヤカーを重い足取りで引き、武は、医者に見離された兄がかわいそうで仕方がなかったが、疲れ切った祖父の後ろ姿をかばうようにリヤカーを押して家路についた。家では、半壊した家の下から、助け出された父親は、横たわったまま動けず、意識も朦朧したようすだったが、息子の信が帰宅したことを知ると、安心した様子を見せた。
祖父は、リヤカーの信の側によれよれのシーツを、二、三枚重ねると、火傷でぶよぶよになった信の体をリヤカーを傾けてそっと移した。信の体は皮膚がはがれて掴みようがなくこうするしかなかった。シーツに蹲る信を、父親が横たわる畳の側に筵を敷いてシーツに包んだまま、武と力を合わせて横たえた。信の反応はなく既に息絶えているのではないかと思われた。文と満は、状況が呑み込めず狭い土間の片隅に、おびえたよう立ちすくんでいた。母親は、変わり果てた息子に呆然としながらも、水ガメの水をコップに汲み、息子の口元に持っていった。もう、呑み込む力もなくわずかに唇が動く。急遽ガーゼに水を含ませ、膨れ上がった唇をぬらす。大きな金蝿が信の周りに集まり火傷の体に集っては、容赦なく卵を産み付ける。
やがてそれが瞬く間に蛆虫になり、信の体中を這いまわる。母親は、必死にその蛆虫をピンセットでとっていくが、次々にウジ虫は生まれ、信の体の奥まで食い込んでいく。あたりには魚の腐ったような悪臭が立ち込める。息子の介護に気を取られ、比較的外傷の軽かった夫の症状に気を回す暇もなく、夫は、11日に息を引き取った。それを感じ取ったのか、信は安心したように、2日後の13日に、父親の後を追った。信は虫の息の中で、親より先に子どもが死んではいけないという父親からの、日頃のメッセージを固く守ったのかもしれない。

後には、12歳、8歳の男の子、4歳の女の子、60歳半ばを過ぎた祖父(母親の父)と母親が残された。一度に二人の葬式を出すことになって、途方に暮れていたところに、村人たちが漬物用の大きな樽を用意してくれ、丘の上の墓地に埋葬してくれた。長崎の浦上地区を中心に約7万人以上の犠牲者が出て、火葬場も焼かれ機能しない状況の中、学校の校庭、河川の河原で山積みの人間の死体が燃されていた。そのほとんどが、肉親に会うこともなく死んでいく理由も分からずじまいで、まるで何の価値もない屑の山のように、この世を去らなければならなかった。それに比べれば、最後を家族が看取れたことは、幸運であった。母親は、これからの生活を何とか女一人で支えなければならないことに、 重い責任を感じていたが、悲しみに暮れている間もなく、早速、食料調達の必要があった。
かつて、信が、「僕は、特攻隊に志願して、国のお役に立ちたい」と言っていたことを、思い出し、そうしていたら、こんな悲惨な様相で、死ななくても済んだかもしれないと、頭の隅をかすめる。しかし、特攻隊なら死ぬ目にも合えず、敵と称する信と同じくらいの若者を殺したかもしれない、やはり反対したのは正しかったのだと、思いなおした。
夫は40歳半ばで、病気がちで兵隊の資格がなく、世間的には家族で誰一人国に貢献していないということで、信は肩身が狭かったにちがいないのだった。運よく生き延びた人達には、甲状腺腫瘍、白血病などの症状で、困難な人生が待っていた。信の母親は、二人の被爆者を介護しただけで、その後しばらくして豊かな髪の毛が抜けてしまった。それは、核兵器が拡散した放射能による影響によるものだったが、アメリカは、日本を占領後、プレスコードをしき、1952年に講和条約が結ばれるまで「原爆の放射能による影響」を公にすることはなかった。
一般の民衆は、当時放射能に対しての知識はなく、広島、長崎の爆心地では、原爆投下直後から、井戸の水、川の水、防火用水の水、飲めない水まで生き残るために飲み、半年もすれば、焼け野原の土地にバラック小屋を建て、生き残った家族がささやかな生活を始めた。土壌に残る残留放射能、あらゆる自然が放射能に汚染されていることなど、つゆ知らず、人々は、原爆投下前の生活を取り戻そうと懸命に頑張った。

原爆投下から約一か月経った9月に入っても、救護所でガラスの破片や木片を取り除いてもらった少女は、一命はとりとめたものの傷口はぽっかりと口をあき、薬もなく、両親は、わずかにあったガーゼを繰り返し洗い煮沸し、食用油に浸し傷口に押し込んでは毎日取り換えて手当てをした。骨折した腕の痛みや顔半面の火傷の手当ても十分なことは何もできず、毎日がその苦しさに、呻いているような様だった。被爆者として生き残ったすべての人間の心身の苦しみが始まっていた。

一方、アメリカのロスアラモスでは、9月、広島、長崎への原爆投下の成功を祝い、その目的を果たした科学者たちの送別会が開催された。
「森の中の赤ん坊」という創作パントマイムが披露され、集まった男性たちに大受けした。それは、高い塔から、モノをいっぱいに詰めたバケツをひっくり返し、数分間、閃光や大音響を出して、トリニティの核爆発実験を再演したものだった。

10月16日には、BONBと刻んだ周りを大きなA(ATOMIC)で囲んだ10センチくらいの純金の玉のバッチと感謝状がロスアラモスの科学者たちに配られた。
チャップリンは、「殺人は個人でやれば、殺人犯罪になり、国家的な集団殺戮であれば、英雄になる」という意味のことを、「殺人狂時代」という作品の中で言っている。核爆弾で赤ん坊から老人まで無差別に殺害した原爆殺戮は、こうして表彰された。

2020・7・1 記

 

あとがき

分厚い翻訳本「原爆の誕生―リチャード・ローズ」を読んでいくうちに、原爆の誕生が、優れたユダヤ系の科学者の功績?によるものだと、気が付いた。
一方、ポーランドのアウシュビッツ収容所を実際に訪ね、ユダヤ人の悲劇を深く感じた。私の肉親は、原爆で悲惨な死に方をしたが、ユダヤ系の人々に恨みも差別感もない。むしろ、ヒトラーが「反ユダヤ主義」を強行したことが、悲劇の根源になったのだと思う。国の長を選ぶ庶民の責任は重い。このレポートが、「平和」を考えるヒントになればと思う。

*資料は、主に「原爆の誕生ーリチャード・ローズ著・神沼二真・渋谷泰一訳・上下巻」と「日本原爆論大系―岩垂弘・中島竜美編集・解説・1・2巻」「ナガサキ・ヒロシマの声、証言・関連書約80冊」、「生かされて、生きてー堂みね子著」被爆体験記―長崎市立山里小学校、ほか。

*文章上の登場人物

・ハップ・アーノルド    米国陸軍航空隊司令官=総合参謀

・ヘンリー・スチムソン   陸軍長官

・ジョージ・マーシャル   陸軍参謀長

・ジミー・バーンズ     国務長官

・ジョージ・ハリソン    スチムソンの特別顧問

以上「原爆の誕生」より

*レポートの人名、肩書、戦艦、地名などの表記は、訳本を基本にした。被爆地の惨状は、資料を基に筆者の創作。
また、このレポートの制作に、広島・長崎の専門家の方にアドバイスをいただき、ありがたかった。心から感謝したい。

*武の一家は、筆者の家族で、亡母の話を素に記した。当時12歳の次兄は、あまりにも悲惨な体験をし、筆舌に尽くし難いのか、沈黙しているので匿名にした。約半世紀前の生前の母の話で、詳細な箇所の記憶は、正確さに欠けることを記しておきたい。

また、救護所の重症の少女は、戦後約10年間の厳しい治療に打ち勝ち、東京の大手化粧品会社に勤め、日本初めての女性管理職になった、堂尾みね子さん。この山村の住民として原爆で重傷を負ったのは、2人だけであった。

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